「死のうは一定!慶応大学3年小泉純一郎」

<「横須賀慶応学生会」の文集(発行は65年6月)>

「死のうは一定!」慶応大学経済学部3年小泉純一郎


『青春重ねて来たらず、青春は人生にたった一度しか来ない。しかもその人生も又やり直すことの出来ないたった一度きりのものである。私は一生を考えふと虚しさを感ずるときがある。虚無を感ずるときがある。胸の中を北風が通り過ぎるような思いがする。なにもかも馬鹿らしくなってしまう。なんのために生きているのか、なんのために勉強して努力しているのか、心を悩ましたってなんになるものか、なるほどスポーツは清々しい。麻雀も面白い。酒もうまい。女もいい。がしかしそれがどうしたというのか。死んでしまえばなにも残らない。すべて一時のなぐさみにすぎないのか。楽天家の私でさえこのような虚無感にふと襲われるときがある。そんな時、私は幸若の敦盛の一説


人間五十年

下天のうちを比ぶれば

夢幻の如くなり

一度生を享け

滅せぬもののあるべきか


を謳い、「死のうは一定!」「それ具を吹け、具足をもてぃ!」と立ちながら湯漬けを食らい甲冑をひっかけ城を馳せ出て、わずかの兵を率いてまっしぐらに田楽狭間に向かい一挙に今川義元を討ち取った織田信長を思い出す。人生五十年、どうせ一度は死ぬのだ。乾坤一擲、思い切ってやってやろうという壮絶な雄々しい感情を秘めて打ち向かっていった信長の気概、見事だ、素晴らしいと思う。男らしくて爽快である。相手を倒さなければ自分が殺される厳しい戦国時代の武将に私は強く惹かれる。戦いに明け暮れ、死など考える暇がなくしかも死が目前にある苛烈な時代の人々の生き方に大いに教えられる。戦場を駆け巡り戦塵の中に生涯を終わった当時の武将を考えるとき彼らに対する哀れな感情と同時に私の身の内には鬱勃たる気分が湧いてくるのである。しかし人間誰もが空しさを感じるときがあるのではないか。ときに襲ってくる虚無との戦いに負け死を考えるときが無きにしもあらず。だが死んでしまったらそれこそおしまいである。自殺は敗北である。私は自殺くらい馬鹿なことはないと思う。人間死にたくなくても必ず死ぬのだ。生きるほうを断念するほうが人生という冒険を勇気に試してみることよりも一層価値があるとでもいうのだろうか。自分の将来はどうなるのか。どのようになるにせよ最後まで見極めたい。』